岩国行波の歴史

岩国市行波は山口県の東部に位置し、中国山地を源流とする延長110キロメートルの錦川下流域の右岸に、標高409メートルの雲霞山を背にして、その山麓傾斜面にある約40数戸ばかりの集落である。

先史時代、対岸の集落・下からは居住を徴証する土器が出土しているが、行波からは先住者象徴の物件を見ることができない。居住地としての条件に恵まれなかったためと考えられる。

南北朝時代、室町時代に人家の存在を伝え、戦国時代、大内義隆は配下の高木氏7人を河内7か所に配置し、統治保全を行った。その7屋敷の1か所が行波にあった。江戸時代に下っては岩国領となり、蔵屋敷が置かれた。

明治改元後は、同12年行波戸帳役場、同17年行波外8か村行波戸帳役場、同22年4月町村制施行により南河内、北河内に分離の後、行波に村役場、郵便局等が設置され、北河内村地域における主要地となった。

交通は徒歩による陸路、国道に連絡する渡舟の二方法であったが、昭和30年4月岩国市に合併、同31年に行波橋が開通、同46年4月に国鉄岩日線(現:錦川清流線)が開通し、後に行波駅が新設された。

行波の鎮守社

江戸時代中期初頭以前における鎮守社は、諏訪大明神が祀られていた。寛政3年(1791)9月旧鎮守の社地に社殿を造営のうえ、対岸の集落・下より荒玉社、天疫社を遷座し、諏訪大明神と合祀の上、社名を「荒神社」と称し、以後、諏訪大明神に代わって、行波集落の新しい鎮守社になった。

文化8年(1811)8月本殿再建の折、「荒玉大権現」と改称、天保10年(1839)3月拝殿新造により概観が一層整備され、その後、「荒玉社」として今日に至っている。

神楽の当初

式年の神楽奉納は立願の為であって、その立願は疫病の流行、災厄に苦悩し、凶作に困惑した里人達が人事を尽くして然る後に、神明の加護を願ったに他ならない。

周防大明神の時代

行波における神楽は、式年神楽以前に既に奉納されており、寛文8年(1668)、鎮守社の秋季例祭において社家神楽が奉納されている。これが行波における記録上の最初の神楽であった。

荒神社の時代

寛政3年(1791)9月遷座、合祀祭を含めての秋季例祭(同時に立願祭)に社家神楽が奉納され、当神社への最初の神楽であり、式年祭となる最初であった。

(以上、「岩国文化財研究保存会会報」平成元年9.10による)

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